全く見せられたものではないドロドロしたものを書いてきた秘密のノート。
名付けたことはなかったが、名付けるならドロノート?(笑)
この二年余りで、たくさん書いてきた。ま、書かざるを得なかった。
悔恨も、愛着も、執着も、怒りも、哀しみも、書くことによって、少しずつ少しずつでも整理されていく。
誰に理解をもとめるというものでもない、自分のために書き続けるというもの。
セルフ傾聴のように使ってきた、誰に見せるというのでもない内緒のノート。
書き続けて、ある程度でも書き切って行った先。
少しさっぱりするというか、解放感があったり、客観視が進んでいたりする。
そうすると、自分の内から、また次の課題が視えてくる。
その度に、ちょっとずつ成長していってるかのような感覚。
日常に溺れるばかりで、成長が蔑ろにされているよりは、ずっと気持ちいいと思う。
その先で何か表に出すものをこうして書いていたとしても、崇高ぶったり、表現技法に走ったものなんか書こうとは思わない。
願わくば、自分の中にあるであろう、偏見や偏執が昇華されていきますようにと願いを込めて書いている。
独り善がりを越えて、もし、何かを感じてもらえたり、もし、何か些少でも伝えられるものがあれば、それはそれで御の字。
人に認めてもらおうなどと思ったり躍起になるより、奥深くで、自分で自分のことが認められているかどうか。
人の気持ちは、人のもの。あなたはあなた、私は私。
そもそも他人の評価など、移ろいやすいものなのだから、それらに右往左往するのは依存でしかないのではないだろうか、とも思ったり。
ー 捨てると入ってくる。
執着を捨てて歩き続けた先で、望んでいた以上のものが得られるというのは「執着を捨てた先」。
それは”「執着を捨てた」と思い込んでいる”ということとは違う。
そんなに簡単に出来ることではない。頭の先っぽで考えて出来ることではないね。
清らかに、穏やかにありたいと願うけれど近づけるかな。
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