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暗さを知り、暗さを突き抜ける

もや

 

本記事は、約6700文字余りあり、ブログ記事としては長文と思われる方も多いかと思います。

もし、よければお時間がおありの際にでも見ていただければ幸いです。

 

暗さを知り、暗さを突き抜ける

では、本文です↓

消したくても消せない痛み

 

要因や背景、内容も実に人様々だと思いますが、望むと望まざるとに関わらず、消したくても消せない痛みを背負わされることがありますね。

ふとした際に意識していなくても沸き起こってきて、身動きが取れなくなるほど、全身を覆ってしまうかのような痛み……。

同時に噴き出してくる、どす黒い感情の渦……。

 

私は、あるところで傾聴の仕事もしていて様々なお話も聴かせていただきますが、消せない痛みには、それが強く根深いほどに「声にならない声」が伴います。

傾聴者の前に私も当事者の一人ですので、最近の私がこのブログで綴るものには、この点が多々、模索的に右往左往しながら含まれているかと思います。

 

ネガティブもあって、いいじゃないか

 

(だって、にんげんだもの)

まず、大事なのは自分を受け入れられるかどうかで、だいぶん、気持ちが違ってくるのではないでしょうか。

根幹となる「自己受容」・「自己肯定」と言われますが、これが、そう簡単ではなかったりもします。

これは、とても重要なテーマで一つのブログ記事程度で簡潔には伝えきれないことですが、最近の私の書く方向性で大きな根っことなっています。

 

プラス思考を盲信しない

 

自己受容においては、変にキラキラなプラス思考を、無理に植え付けようとするものではないと、私は思います。

そういった無理矢理は実は弊害のほうが多いことから、私は、そういったキラキラ神話・プラス思考” 信仰 ” のようなのは大嫌いです。

上記のように述べると誤解を受けそうですが、私は「プラス思考」が嫌いなのではありませんし、学んでこなかったわけでもありません。

ただ、まるで何かの信仰のように、いかなる場合にも通ずるかのように振りかざすものではないと思うのです。

プラス思考だけでなく、成功哲学も大枚はたいて学んできましたし、トレーニングも受けたことがあり、それなりに浸透もしています。

学んでいく中で同時に感じてきたのが、プラス思考や成功哲学を盲信して、それで全てを解決させようとするかのような強引さです。

まるで万能とでも言いたげなそれらには、おこがましさすら感じます。

浅はかで、嘘くさくて、借り物のような、そういう使い方は嫌いという意味です。

 

プラス思考は「あらゆる人の、あらゆる状態に万能」ではありません。

 

実際にプラス思考や成功哲学を身に浸透させ過ぎると、頭がカチカチで排他的のような世界になるとも、残念ながら考えられます。

私も数年間、そういう時期だったと思い出されますが、それにはメリットもあれば、デメリットもあります。

または正論を振りかざすようなことでも同じで、以下の記事でも記しましたが使うことに” 酔 “ってはハラスメントにもなってしまいかねないとも思えます。

(「酔っては」というのは、あえて「酔」を用いました)。

以下の過去記事でもご紹介しましたが、私に限らず、多くの方が声を挙げているところでもあります。

正論めいたものを振りかざして自己満足しようとして、相手の心を消費(利用)することへの叫びです。

 

「フェイク・ポジティブ・ハラスメント」(造語)
これはまだ未完の記事です。ポジティブや前向き、感謝と言う、一見、耳障りの良い言葉を使って、内面の自己防衛を図ろうとし、それで言われた相手を消費しようとしているということはありませんか? このようなことが善意による暴力となってしまう所以です。

 

プラス思考で逃げても言葉の上でキレイっぽく見えているだけで、それだけでは気休めのようで、何の解決にもならないのではないでしょうか。

どうしようもないほど心が苦しんでいるときに、ありがちなアドバイスめいたものなんて空々しくて、それが正論っぽく見えれば見えるほど、余計に胸を抉るとともに強烈なモヤっと感を残します。

見たくないからと言って、フタをしても消えるわけではありません。

 

ネガティブな感情を強引に抑え込んだり否定しようとするのは、それが強ければ強いほど逆効果です。

 

暗い自分でも許し受け入れることも大事で、そこを突き詰めて抜けていった先に視えてくるのは、強引なプラス思考信仰にはなかった本物のプラスがあると、私は思います。

 

もし「マイナス」の状態にあるのなら、まず「0」、フラットの状態にしてから、それから「プラス」というのが自然です。

 

「プラス」や「マイナス」という算数記号で感情を表現するのも、私は好きではありませんが、「マイナス」の状態にある時に、強引にプラスで覆ってしまおうとすることに無理があります。

骨折している時に健康に良いから走ろうよ、と言われても、無茶振りすぎるようなものです。

(骨折が「マイナス」で、走ろうよが「プラス」です)。

身体のことは目に見えて分かりやすいかもしれませんが、心のことは目に見えないので誤解されやすいとも言えますね。

 

ネガティブ、さらには黒い感情、例えば恨みの感情などを否定しないと書くと、コワイ誤解をされそうですが、決して、そのような感情を推奨したり後押ししようなどという意味ではありません。

否定もせず、後押しも推奨もせず、そう感じているんだ、と、ただ受け止めるという意味です。

 

一部を見て全体かのように誤読されないことを願うとともに、このことには後述でも少し触れますが、その前に伴う辛さについて記します。

(なお、私はスピリチュアル系は好きではないので、もし、そのような期待を持たれて読まれる方がおられましたら、ここにはありませんので他を当たっていただきますようお願いいたします)。

 

溺れまくる日々

 

「自己受容」と言ったって抱えているものによっては、とても辛かったりして考えるにも困難が伴ったり、月日がかかったりもします。

大きな壁となる無意識に湧き起こってくる痛みや辛さのところだけで、本が何冊か書けそうなぐらい、私にも沢山あります。

日常的に、ふいにフラッシュバックして襲いかかってくる心の痛み、辛さに対して、頭で考えるだけで無理にどうこうしようとしても、どうにも出来ないことはいっぱいあります。

今では、こんな時でも、ただ、じっと見据えるように、見つめ続ければいいんだと思えますが、そう思えるまでは、ずいぶんと刹那的、退廃的に堕ちたくもなりました。

頭で分かっているつもりでも、この根深い感情の流れは止められなかったりする厄介なもので、私も散々、振り回されて溺れ続けたリアルな場面が思い出されます。

 

「なぜ、こんな人生を味わらなければならないんだ。頑張ってきたのに」

 

渦巻き続ける感情の中、本当に何度、思ったか分かりません。

同時に、どこまで行っても代替もなければ、刹那では逃げ道もないことを身に染みさせられてきたようにも思います。

代わりを求めるのでもなく、刹那でもなく、新しい人生を創らないと……。

こんなことは分かってはいたはずなのですが、そう簡単に割り切ったり、切り替えられないこともあります。

とっても個人的なことで生々しい書き方かもしれませんが、酒と女性に溺れまくったネオンの人工的な照明の日々、アル中の一歩手前だったのかもしれません。

少なくとも寿命は縮めたのでしょうが、月日をかけて、身をもって感じきるプロセスが必要だったのかもしれません。

この間に意識するしないに関わらず、良い悪いに関わらず、人生観も大きく根っこのところから変えられたように思います。

酒や女性に溺れることがなくなり落ち着いた日々を過ごしている今でも、少し、どうかなと思っている点としては、どこか異性を信じきれなくなっている自分が居ます。

彼女ができても数ヶ月で続ける気持ちになれず、今はつくる気にならない、パートナーが居ない時期の最長記録の更新中でもあります。

まぁ、それも無理ないかぁ、ぐらいの感覚です。

過去の私はパートナーが居ない時期は少なく、短い期間で別れるということもなく過ごしてきましたが、今は頑張って求めようとしていない初めての時期です。

 

怖いほど付いて回る辛さ

 

心身を壊し切る前に、少しずつでも意識的に辛さにフォーカスしていかないと、いつまでも怖いほど付いて回ります。

辛すぎて「生き地獄みたいだな」と私は何度も思ってきましたが、その生き地獄から抜け出るのは、最後は自力しかないようです。

そこにハマり続けていると、アルコールを摂取しているわけでないのに記憶が混濁したり、ネガティブが化膿して肥大化してしまいかねません。

表っ面だけのキラキラで飾り立てても、本質的には意味がないどころか、ごまかしているだけで余計に悪化させかねません。

借り物のプラス思考でも、借り物に自分をはめ込もうとしてもダメです。

 

そもそも本当のプラス思考は、ネガティブすらも否定しないものだと思います。

ネガティブを突き抜けるほど感じきっていく本人の、その先を信じるならまだしも、それどころか何かのレッテルを貼るかのように、臭いものに蓋をするかのように忌み嫌うものではありません。

だって、それだって人の自然な感情ですよ。

否定してしまうほどに…… 消えずにこびりつく。

楽になるどころか、奥のほうで固執化して強まってしまうということが心の働きにあるのも、私は痛感してきました。

人は、そんなに都合よく出来ていないようです。

その場限りの頭ごなしの押し付けなどが功を奏することはなく、より悪化させることに為りかねません。

子ども向けのヒーロー物・ヒロイン物の作品のように、単純明快な勧善懲悪でジャッジして、現実はそれで済むようなものではありません。

下手すると被害者意識が暴走したり、物事を歪曲して捉えがちになったりする心の負のスパイラルにはまってしまう人も多いでしょう。

 

心の窒息状態からの安全な脱出

 

負のスパイラルは出口を塞がれて閉じ込められている心の窒息状態のようなもので、その酸欠状態は思考をパニックにさせていきます。

とにかく呼吸が出来るように、闇雲にでも、何かを破壊してでも出口をぶち当たりたくなるでしょう。

落ち着いた思考が働かず、破壊衝動が強く出てしまうのは言葉のまま危険です。

それでは、より痛みや苦しみを大きく強くしてしまうことになりかねません。

被害者意識の暴走の行き着く先は、歪んだ加害者意識という悲惨なものです。

足掻けば足掻くほど、胸をかきむしり苦しくなる状態です。

このように暴走し続けた挙げ句、もし現実に反映されてしまうと、世間で起こる破滅的な事件のニュースのようになってくるのではないか、と、怖くも思うのです。

「そんなことは分かりきっているよ」ということかもしれません。

そのような負のスパイラルにならないよう、意識的にでも自らを許し受け入れていくことで、安全に晴らしていくための自己受容です。

 

許せない自分を、ただ受け止める

 

許し受け入れていくとは、必ずしも他人に向けてのものとは限りません。

何でも許してはいけないこともあるでしょう。

左の頬を殴られたら、右の頬も差し出していては生きていけなくなります。

騙すより、騙されるほうが良いとは言っても、騙されてばかりいたら人生が破綻します。

誰かの犠牲になるために生まれて、存在しているわけではありません。

 

許せないものもあると思いますが、それまで許せ、ということではありません。

ただ離れて、自由になれば良いと思うのです。

まず、自分の人生を、自分を活かして生きるということが大事です。

そのために他人を許せない自分も許す、ということですが、以下の注意点があります。

 

空間を支配する真っ黒な排ガス

 

前述でも少し触れましたが「他人を許せない自分を許す」とは、仕返ししたい感情のまま動きましょう、ということではありません。

容易に想像が付くかと思いますが、仕返しは足元を壊したり、現実的な自滅に繋がりかねないばかりか、ますます心を闇に貶めてしまいます。

他者非難に囚われるほどに憎い対象とともに闇は肥大化しまい、どす黒く不快な空気が増すばかりです。

真っ黒な排ガスのような中では、到底、生きていけません。

恨みつらみ、罵倒、せめぎ合い、あの気持ち悪さは忘れられないものがありますが、排ガスから逃れるには、自らそこを脱するしかありません。

そのために、誰かを許せないと思っている自分すら、冷静に客観的に受け止められるようにという狙いです。

 

心を整えようという意識

 

囚われないように、心穏やかに、日々を楽しめるように……。

許せない自分がいるのを、ただ受け止める。

執着したり行動として反応しないようにコントロールする、心の練習です。

それが本当の辛さであればあるほど辛さが身に刺さり、一気には出来ないでしょう。

状況によっては、とんでもない程のシビアな課題かもしれません。

 

ゆるやかに、少しずつ出来るような静かな環境と、整えて維持する習慣が不可欠となってきます。

私は、瞑想や座禅の仕方などは知りませんし、そんな仰々しい?ものでなくても良いと思っています。

じっと心の動きを感じているだけでも苦しかったりしますが、どうしようもない時は、自分だけの秘密のノートに書き連ねるというのでも、客観視に役立ったりします。

私は何度も疲れ果てるまで、散々、活用してきました。

もっとも安全で、害のない吐き出し方法かもしれません。

 

ドロノート
全く見せられたものではないドロドロしたものを書いてきた秘密のノート。 名付けたことはなかったが、名付けるならドロノ... >>

 

いずれ、ただ受け止めることに慣れてきます。

淋しさも伴うかもしれませんが、いつか、辛さは軽減します。

キレイで澄んだ空気を、暖かく柔らかい陽射しを、心地よく感じられます。

いかなるところからでも、自分の今日、明日を創るのは自分という意思も自然と湧きます。

それでも全てが解消されるわけではなくても、寛解の状態に向かっていけるかと思います。

 

黙っていても「時が解決してくれる」ではなく、黙っていたら、恨みつらみが肥大化するケースもあります。
自らの灯りを灯す方向性の心があって「時が解決してくれる」なのだと思います。

 

灯りを、あなたご自身で灯せますように

 

湧き起こるドロドロした感情に、多少でも振り回されなくなるような、多少でもコントロールできる状態……。

ここまででも、私は2年以上を要しました。

「多少」と書いたのは、全然、完璧なんかではないからです。

完璧なんてあるのかどうかも分かりません。

要した2年以上、2年もさまよって……と思った時もありますが、早いのか遅いのか自己評価もしません。

人によって、背景も内容も違いますし、必要な期間だったのかもしれません。

元々、望んではいなかったにしても……。

 

「一人」なら良くても「独り」だと……。

 

独りでは、とても困難な場合も多く、もし完全な独りだったら、この程度の位置にも辿り着けたかどうかすら、私自身、定かではありません。

私にとって最後の支えとなってくれているのは、私を信じ切ってくれている、いつもそばに居てくれる愛猫の存在です。

私が辛い時ほど、じっと傍に居てくれる、その表情は「あ、分かっているんだな」と思わせられるものでした。

この子を守るために、私は闇に堕ちきってはいけないという想いが、いつもあります。

同時に、私が生まれ育ち感じてきたことから積み重ねてきた生き方を、自らのどす黒い感情や被害者意識なんかで潰したくはないという、諸々の想いから湧き起こる意地もあります。

「そんな軽くも、浅くもないねん!」、「もっと高い視点で」という、自分への意地です。

低い視点に囚われると甘さも多くなり、他者の胸先三寸で左右されやすくなります。

それは、もう、まっぴらと私は思っています。

 

それでも、心の暗闇の中で、いつも、心の伴走者の存在が必要だと痛感してきました。

一番の伴走者は自分自身だとしても、とても伴走できないで振り回されるような時、誰かの存在が痛いほど必要だったりします。

完璧な伴奏者などいるのだろうか、それも私には分かりませんが、何もそれは恋愛関係に限らないと思います。

多少の伴走なら出来る人は世間にいますし、多くを人に求めすぎると関係は維持できず壊れていくのでしょう。

完璧を他者に求めると見誤っていくなど、言葉にすると極単純なことに見えますが、つい、そうならないように気をつけたいところです。

 

安易に答えを求めず、自らがどう在るか、自らで探し続け、自らに求め続けていく姿勢が基本なのだと思います。

 

私は今は伴走と自走のプロセスを意識して、私独自のアプローチで表現を創れないかと模索しているところです。

心で寄り添い、あなたがあなたの暗闇を晴らす、そんな灯りを、あなたが灯せますように……。

もし、そのお手伝いに、ほんの少しでもなれば、とても幸いです。

ほんの少しのお手伝いにすらならないかもしれませんが、願ってはおります。

 

拙文ながら長文になりましたが、お読みいただき、誠にありがとうございました。

 

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はくう

優しい性格の愛猫と、本と植物があちこちにある部屋で静かに暮らしております^^

大阪在住の40代・男性・バツイチ独身、本職は1999年より自営業(会社)です。
このブログは仕事は別の、私的な個人ブログです。

結構、キレイ好きですが、潔癖症というほどではありません^^;
「書く文章と、話ししている雰囲気が違う」と言われることがあります。
文章の雰囲気では、堅い?と思われやすい?みたいですね。

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